怒り

いちはやくそいつから、ぼくははなれたかった。それは、そいつのことをぶちころしたくなったことと、うそをついたおくさん、それから、しんじたじぶんじしんに、もうれつないかりがこみあげてきたからです。じぶんのあまりにもやさしすぎるたいおうに。うそをあのじょうきょうでへいきでつくおくさんに。いまにもひとをあやめてしまいそうな、そんなきもちでいえにきゅうこうしました。どこにもいかせたくなかったぼくはおくさんにでんわをかけました。じぶんでもおどろくくらいにおおきなこえで、どこもいくなよ、にげんなよ、ぜったいゆるさんからな!この、ぼけ!!そーいってきりました。おくさんにたいしてはじめてこえをはりあげいかりをあらわにしたとおもいます。そしていそいでかえりほんにんのくちからほんとうのことをききました。うわきあいてからこーゆうことをきいたんだけど、ほんとうなのかと。はい。そのひとことだけでした。あとはごめんなさい。だけでした。かんたんです。かぞくがこわれるのは。しあわせなじかんがこわれるのは。ぼくはなにもことばがでませんでした。なにもいうきりょくもなく、なにかをつたえたいともおもうこともなく、そのばでいきるしかばねのように、からだからたましいがぬけたかんかくにおちいりました。しあわせをつくるのにじかんはたくさんかかります。でもこわれるのはあっというま。ほんのささいなことで、こわれることもあれば、こんかいのようにどちらかのうわきでぶちこわしてしまう。そーあらためて、まなびました。こんなことをされても、ぼくはまだすきだった、りこんすることをこのときは、けつだんできませんでした。そのひからぼくは、たくさんかんがえました。こんごについて。りこんするにしても家のローン、こどものこと。まわりになにをいうか。おやにどーせつめいするのか。せつめいしたあとどーゆうことがおこるのか。また、ゆるしていままでどおりせいかつしていくのか、それとも、りこんせず、ルールをつくりしばるのか。こうこうをそつぎょうさせてあげることができなかったぶん、なにもなかったかのように、ぜんぶをみずにながし、かんぜんにゆるすのか。なにがさいぜんさくなのかわかりませんでした。かんがえたくなかった。にげだしたかった。それでも、ぼくはおとこであり、ちちおやであり、いちようだんなではあったので、しっかりあとさきかんがえ、けつだんしようとかんがえました。じんせいおかけてしあわせにしたかった。でも、うわきするきもちはなんとなくわかりました。じぶんはさいぜんをつくしていたのか。おとことしてみがこうともしてなかったし、おくさんとのかいわもながしていたこともあったし、ひとのことがいえるたちばではないのもあたまがひえてくればくるほどそーおもってきました。こうかいすることばかりでした。けっこんするときもプロポーズもしてなかったし、けっこんしきもあげてあげられるほどのよゆうもなかったし、もっとやりたいことをやらしてあげれればよかったなと、つよくおもいました。でも、こうかいしてもいみがない。このさきのことをかんがえなければいけない。なんどもこうかいと、はんせいと、このさきのことをくりかえしかんがえていました。じぶんのきもちはもーめちゃくちゃでした。ゆるそうとおもうときもあれば、なんでおれがくるしんで、おまえはわらってられるんだと、ゆるしたり、ゆるさなかったり、おくさんもとまどっていました。ぎゃくギレされる日もありました。それがぼくにとってはイライラするしかなかったんですけど、じぶんでもなにしてるかわからなかった。もーどうでもよくなってきたと思うこともありました。